僕は「検索」が好き


みなさん、こんにちは。

世の中は恐らく夏休み一色でしょうから表題どおりにお気軽な話題でも。この夏、改めて「検索」について考えてみたことをつらつらと書くのです。

僕が仕事として検索に関わりだしたのは恐らく2005年頃だったと思う。それまでは検索という行動自体をじっくりと考えるなんて機会はなかったかもしれない。当時はディレクターとして働き、SEOの必要性に迫られて勉強をちょこちょこしながら何気なく過ごしてたはず。そんな時、リスティング広告も必要に迫られて勉強しだしたのがきっかけ。

当時はまともにSEOについて書いてあるブログなんて渡辺さんのSEMリサーチくらいなもので、正直今のようにまともなSEO・リスティング広告ブログなんかほんとになかったんですよね。特に後者は皆無だった。だから独学しかなかったんですよ。何個もドメイン取ってサイト作って自分でいろいろ書き換えて、順位はどうなってるかとか、広告出稿してみてなんでコンバージョン取れないんだとかそんな感じ。みんな身銭切ってテストしてたと思う。(というか、身銭切って興味で実験繰り返してたような人が今も残ってる気がする。)

それからもう8年とか経ってしまって完全に中堅を超えてきている感は否めないわけだけど、何故劇的に飽きっぽい僕が今の仕事を続けられているのか?と改めて考えてみると、僕が「検索」という行動そのものに魅了されてしまったからだと思う。というか、それ以外には恐らく無い。

何故、僕は「検索」に魅了されてしまったのか?

だって「検索」って人間臭いじゃないですか。例えばとあるサイトに「浮気」というキーワードでの流入があるとするならば(例えが不謹慎かもしれないけれども)、様々な意味や想いがそのキーワードには含まれているわけです。

「浮気された、こんちくしょー!仕返ししてやるー!」だとか、「彼の浮気の兆候を調べて発言小町的なものを探している場合」であったり(こういう人は同調が欲しいんだよね)だとか、「浮気のバレない方法を探していたり」だとか、上げればきりがないほどに沢山の想いが詰まっているわけですよ。たった1つの検索クエリの中に、僕らが全ては想像しきれないようなさまざまな人間模様が隠されている。※これも検索連動型広告のジレンマでもあるんだけどね。

で、僕はその1つ1つの想いをアクセス解析なんかを利用して直帰率や平均ページビュー、滞在時間や時にはページ遷移などを見て仮説を立てながら、あたかも複雑に絡み合った紐を解いていくような行為によってそのユーザー真理を読み解いていくということが面白くて堪らないのです。だってそんな人間の”裏側”の想いを露骨に感じられるものなんて、他にそうそうあるものではないのだから。

勿論、そういう意味合いではGoogleアドワーズのディスプレイネットワークも好き。「検索」に負けないくらいコンテンツ向け広告も好きだし、これは僕の芸の1つでもあるかな。ここだけで話させたら丸1日は自由に話せちゃうもの。ここでは割愛するけど。

「検索」は無くなるのか?

あまり書くなって言われたんだけど、折角の話題なので書いちゃいますけど、結論から言ってしまえば僕は「検索」はなくなると思ってます。こういうことを言うと業界全体から白目で見られるんだけど、そんな人達に僕が言いたいのは、「検索は20年前にあったんですか?」ということ。

20年前に「検索」なんてあるわけないよね。じゃぁ、20年前に「検索」のような価値を提供していたのは何かと考えれば「図書館」だと思う。これ、どこかの本でも書いてあったと思うんだけど、知の蓄積という意味でも、自由度があるという意味でもやっぱり「図書館」だろうなぁ。勿論考えれば他にも上げられるかもしれないけどね。その図書館が衰退したかといえばそうではなくて、僕らが中学校、高校のときに行ってた頃よりは少し利用する用度が変化している気がするよね。詳しくはまたの機会に改めて書きたい話題だけど。

つまり、僕がここで言いたいのは「検索はなくなるぞ!」ということではなくて、現代の「検索」という価値、つまり物事を知りたいだとか、調べるだとか、そういった知的な欲求を満たしてくれるものが「検索」から何かに置き換わる可能性があるよね、ということなんですよ。検索的な欲求は無くならないのだけれど、現代の「検索」という行動は無くなる、というのが正解に近いかもね。これはもう森羅万象な世界になっちゃうわけだから「検索はなくならない!」と本気で大声で叫ぶ人も結構いるんだけど、僕はどうかと思います。


検索の立役者とも言えるGoogleの創業者であるラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは2004年頃に「将来的にはGoogleの検索は脳で考えただけで自動的に情報を取得してきてくれるようになる、つまり人間の脳の一部になる」と話しているのは有名な話。「検索」そのものをビジネスの主軸においている彼ら自身、「検索」を次のフェーズへ持って行こうとしているのですよ。提供する価値は近えど、今の「検索」という形とは少し異なってくるよね。そのうち「検索」とも呼ばない未来が来るはず。

そういう意味では「検索」はなくなるんだよ。必ず。

「検索」に関わるビジネスの方へ

僕はSEOやリスティング広告という仕事はクライアントへの価値の提供であると同時に、検索エンジンを利用するユーザーへも価値を提供していると思ってるんですよね。良い検索結果を提供することが出来れば、それだけ良い社会にもなると本気で思ってる。だって「検索」をかけてくだらないサイトしか表示されないなんて、それこそくだらない社会になっちゃうじゃないですか。(昔はそんな感じだったかな)

そういった意味でも、先でも上げた「検索」に魅了される人たちがもっともっと多くなればいいなと思ってます。そうなれば、広告代理店だろうがコンサルタントだろうが、アフィリエイターだろうが、より良い価値を社会に提供することが出来るもの。もっともっと誇っていい仕事になると思う。(田舎の親が理解出来るくらいにはなるかな…)

そして「検索」や「リスティング広告」に依存するな

これはうちのスタッフにも常に話していることだけれども、多くのビジネスにおいて「検索」は目的ではなく、手段でしかありません。戦略ではなく、戦術の領域であることがほとんどです。その辺を履き違えてはいけないんですよね。それはリスティング広告も同じです。

だからこそ、「検索」や「リスティング広告」に依存しては大きなことは出来ないな、と思うことが多いのも事実です。ビジネスによっては「検索」なんかよりも駅前でビラを配ったり、ポスティングしたり、飛び込み営業したほうが効果が出る場合があるのに、何故わざわざ「検索」という手段・戦術をむりくりにでも活用しているのか解らない方々も本当に多いんですよね。駅前でビラを配るよりも「検索」の方がITっぽくてカッコいいですか?いやいや、カッコ悪いよね。

「検索」や「リスティング広告」に依存した発想しか持ちあわせていないのであれば、先に上げたような「検索」が形を変えた時に順応はできません。

もっとも強い者が生き残るのではなく、もっとも賢い者が生き残るのでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である。

「進化論」を説いたチャールズ・ロバート・ダーウィンも「唯一生き残るのは、変化できる者」と言ってます。変化・順応が出来ないものは生き残れない。

検索クエリと睨めっこするのではなく、その検索クエリを投げかけたユーザーを想像するんだ。検索エンジンと勝負するんじゃなくて、裏側の人間、そしてその思考を想像することこそがマーケティングの原点なんだもの。

最近ではビックデータなんて言葉が横行しているけれど、あんなのは無視してしまって構わないと思ってる。いや、否定するわけではないんだけれどね。データは大事だ。でも、データが主役になってはいけない。ビックデータという言葉はそんな大切なことを忘れさせてしまう言葉に聞こえてしまうんだよね。

まとめ

短文のつもりが大分長文になってしまう悪い癖は治りませんな。

検索は人間を退化させるのか?でも書いたように、「検索」は人間を進化させるでしょう。それほどまでに「検索」は興味深い領域で、どれだけ関わっていても全てを理解するのは中々難しいものです。でも、だからこそ面白いし、やりがいのある領域だと思うのです。

そして「検索」の価値を最大限にクライアントに提供したいと思うのであれば、「検索」そのものを根本的に見つめなおし、一歩離れた依存しない視点も忘れてはならないと僕は思うのですよね。そういったものが容易になってくれば、「検索」の価値や形が変わった時でも、その思考が必ず役にたってくれるはずです。

取り急ぎまとめますと、「検索」って真理だったりテクノロジーだったりといろいろややこしいことも絡んでくる領域ではあるけれど、僕はそんな「検索」が好き。そしてそんな気持ちの方と一緒に仕事がしたいと思うのです。

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